生きてるだけで精一杯。
SS戦闘記録
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richard1 2005.03.20.白水社刊、ハードカバー。著:レジーヌ・ペルヌー/訳:福本秀子。
概要……
 12世紀末から13世紀初頭に掛けて、イングランドの国王として即位した獅子心王ことリチャード1世の生涯を、彼を助けて奮闘した偉大な母親・アリノエールを視野に入れつつ活写した歴史教養書。年代記からの採録が多く、当時の雰囲気を知るには最適の一冊。
 リチャード獅子心王と云えば、イギリスでは最も人気の有る王様で、百戦して負け知らず、常に勇気と寛容さを以って人に接し、時に不正に対しては激怒もするちょっとお茶目な所も有るけどそこがまた憎めない蓋世の英雄である。
 ところが、この「歴史上の評価の高い王様」と云うイメージばかりが先行した結果、「王様」を憎む事甚だしい一部の知識人の間では、彼を「イスラムに対する虐殺者」「戦争マニア」「民衆に重税を敷いた暴君」等と謗る声が高まり、更に最近の反米思想・反戦思想・イスラムマンセーの蔓延と相俟って、今や歴史の教科書でも名前が出るか出ないかのボーダーライン上の人物に……挙句に、歴史家としての正規教育さえ受けてない柘植某にまで貶められてる始末orz(ええい、貴様が聖人君子と仰ぐサラディンじゃって元は父アイユーブがセルジューク朝に仕えていて罪を得てザンギー朝に亡命て取り立てられ、その保護下でサラディンもザンギー朝の将軍になり、ザンギー朝の命令でエジプトのファーティマ朝に攻め込んでこれを乗っ取ってアイユーブ朝を開き、大恩あるザンギー朝を滅ぼしてイスラム世界を統一してるんじゃぜ? 悪党と云う意味ではどっちもどっちだってーの)
 そんな逆風吹き荒ぶ中、こうしたリチャード1世を評価する書籍が遂に翻訳されて日の目を見る事になるとは、非常に嬉しい限り。是非閲覧者諸賢にも一読をお勧めしたいが、此処では更に「けっ、リチャードの如きウヨクの為に時間を割けるかよ!」と云う困った御仁の為に、作中の面白いエピソードをより抜いて紹介したい。
[01]フィリップ尊厳王だって道に迷う。人間だもの。
 1179年8月、戴冠式の前に狩りに出たフィリップは道に迷い、森の中で一夜を過ごした。結局炭焼職人に助けられたものの、精神的発作によって何日も無気力状態が続いたらしいw
 オーギュストと云えば知勇兼ね備えた人物で、リチャードを叩く批評家が必ず持ち上げる完璧超人だが、そんなフィリップだって森で迷えばオシッコも漏らすと云う事ですなー。

[02]アキテーヌ公としては良く領土を治めていた
 良く、イングランド王としてイギリスにいた時期は一年未満で、統治者としての資質無し、等と言われるが、彼が王子時代に統治していたフランス・アキテーヌ地方は良く治まっていた。というか、佐藤賢一が「英仏百年戦争」で述べた如く所謂「イングランド王」はメインがフランス諸侯でイングランド王はサブだった事を考え合わせると、立派に封建領主としてやって行けていたんじゃなかろーか。

[03]エクスカリバーをタンクレードに与えていた
 グラスタンバリー修道院を発掘してアーサー王の墓を発見し、エクスカリバーを入手したらしい……ふむぅ、探索レベル@大航海時代onlineも高かったようですな(と云うか、実在しない伝説上の人物の武器を「発見」出来るのか?!)。で、その剣を十字軍遠征途中に両シチリア王国の王タンクレードにプレゼントしちゃったそうな。ううむ、正に大器!
 文化財を私物化して勝手に他国の王に与えるなよと思わなくも無いがw

[04]アッカでオーストリア公の旗を掘に捨てたのは、オーストリア公の傲慢に依る
 リシャール・ド・ドヴィーズの語るところに依れば、アッカ陥落後の論功行賞中、リチャードとフィリップが捕虜を二等分していると、オーストリア公は自分の分け前を主張し、自軍の軍旗を持って来た。この行為が、未だ聖地奪還も出来ていないのに勝利の分け前を催促しているように見えたリチャードは、堀に旗を捨てさせたのである。
 決して、俗説に云う「一番乗り争いに負けてムシャクシャしてやった。誰でも良かった。今は反省している」とゆーようなわけではない。

[05]アッカでの捕虜の虐殺に関する前後の文脈
 良くリチャード1世を批判する際に、リチャードはアッカでイスラム兵捕虜2700名を斬首したが、一方のサラディンはエルサレムを攻略した際にキリスト教徒を無償で解放した、と言われるが、これはちょっと前後の文脈をすっ飛ばし過ぎであろう。
 そもそもサラディンはアッカ戦の前にテンプル騎士団の捕虜を処刑しており、別に捕虜なら誰でも解放する聖人君子ではないのである。更に、十字軍が兵糧に事欠く有様なのを見越してアッカ戦後の捕虜返還交渉をすっぽかしたりしたので、リチャードが怒って捕虜を斬ってしまったのだ。勿論これらは虐殺を肯定する理由にはならない(その事は、ペリヌーも前置きしている)が、これを以って一方を聖人君子・他方を悪魔と詰る事は難しいと思う。少なくとも、リチャードを非難する時には、罵りの言葉に頭を捻る努力の十分の一でも、この前提条件を併記して読者に公正な判断材料を齎す事に気を使って欲しいものである。

[06]アルスーフの戦い
 この戦いは、結果としてエルサレム奪還が失敗した事から無意味な戦術上の勝利として片付けられる事が多いが、実際にはこの勝利によってアッカは1290年まで確保され、「キリスト教徒の東地中海」を実現出来た事は戦略的に意義の有る事ではなかろーか。それに政治目的である巡礼の保護は認められたわけだし、先ず成功の部類と云って良いと思うけどなぁ。
 勿論、実行者であるリチャード一世自身が聖地奪還の失敗を深く悔やんでおり、聖地巡礼が許された後も敢えて自分の聖地巡礼を禁じて帰国した気持ちは分かるんだけども。

[07]王の釈放は身代金によるばかりでは無い
 十字軍からの帰路、先に侮辱したオーストリア公の報復でリチャードは神聖ローマ帝国の捕虜となってしまう。その際にイギリス王家に請求された身代金は、実に15万マルク! 後世、この身代金の金額からリチャードは暴君の名を奉られる事になるのだが、そもそも一国の王を捕虜にして解放する事自体が希。どうしてそーなったかというと、皇帝が召集した帝国会議でリチャードが大いに演説し、最後には皇帝と抱き合って和解したからなんですな。さもなきゃ、解放自体が有り得ない。
 その後もフィリップやジョン(リチャードの弟)はオーストリア公に賄賂を送ってリチャードをドイツに抑留しようとしたが、流石に呆れた選帝侯達の反対でポシャッている。捕虜になったリチャードの間抜さを罵ったら、次はちゃんと解放の顛末も書きましょうや、先生方。

[08]フランスで勝ちまくり
 で、神聖ローマ帝国から釈放された辺りまで来ると、アンチ・リチャード派の連中はいきなり「もう語る事は無い」とでも言う風に纏めに入っちゃうのだが、実際にはその死の前にも様々なイベントが有るわけで。その代表例が、イングランド軍がフランス軍を鎧袖一触で破ったフレトヴァルの戦いであり、リチャードを陥れたオーストリア公の事故死である。
 フレトヴァルに関してはリンク先を参照して頂くとして、ここではオーストリア公に関する記述を追って見よう。
 オーストリア公は宮廷の小姓が遊びで作った雪の城(カマクラ?)を戯れに包囲したが、その際に落馬して負傷。傷口が壊疽し、急死してしまった。息子は泣く泣くオーストリア公の葬式を上げようとしたが、実はオーストリア公は十字軍に貢献したリチャードを抑留した罪で教皇から破門に処せられていたので、何処の教会でも門前払いを受ける羽目に……結局、リチャードが帰国してからも続いていた15万マルクの身代金の支払いを半ばでキャンセルして、やっと埋葬許可が出たのであった。

[09]神聖ローマ皇帝?
 他にも、帰国後のエピソードは有る。1197年、かつてリチャードを抑留した神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ六世が死去した。その後継者として皇弟シュヴァーベン公が立候補するのだが、如何せん「チンギスハーン??」でも政治40/戦闘53/智謀47で兵科はCとEのみ、しかも特技0では君主の器とは云えない(冗談です、念為)。困った選帝侯達は、かつて帝国会議で堂々たる雄弁を振るったリチャードを思い出し、 リチャードの元に王冠を届けに行くので有りました……まぁ、最終的にはリチャードは自らの本貫地アキテーヌを選び、皇帝には甥のオットーを推薦して影響力の強化を図るに留めるのでは有りますが、神聖ローマ皇帝リチャード1世なんてのも想像して見ると面白いかも知れません。

[10]自分を撃った射手を誉める
 このエピソードは比較的有名かも……オチのお陰で。
 リチャードはノルマンディーのシャリュー城を攻囲戦の視察中、櫓から弩で狙撃された。リチャードは咄嗟に「あっぱれ!」と叫んで悠々と帰還したが実際には傷は深く、10日程苦しんだ後死亡した。死ぬ直前、王を狙撃した射手のピエール・バジルが捕らえられて王の御前に引き据えられたが、王は彼の腕前を誉めて褒美としてエステルラン貨幣で100スーを渡した。そして、自分の死後もピエールを殺さない様にと部下に命令したがこれは守られず、家臣のメルカディエがピエールの皮を剥いで吊るし首にしてしまった。

<2009/12/12追記>
 なお、別の説ではピエール殺害を主張したのはリチャードの母アリエノール・ダキテーヌとされているが、この本には記載されていなかった。作者のアリエノール贔屓の為か? 真相不明なれどここに覚書として追記する。



1[11]地獄に行かせてくれ!
 死の直前、リチャードは生前中に犯した罪の償いとして、最後の審判の日まで煉獄に留まらせてくれるよう主に祈った。
 以上、アンチ・リチャード派の良識派知識人の皆様が「字数制限」とか「末枝葉節」と切り捨てたがるエピソードでした。どうです? 「悪魔王リチャード」のイメージが随分変わったでしょ?
【総評】:非常に面白い内容なので、歴史ファンは手許に置いといてもいいかも。但し値段もそれなりなので、財布と相談の上、と云う事で。
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コメント
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はじめまして、特命希望と申します。早速ですがリチャード1世に関する論評はとても面白かったです。
ただサラディンへの
>(ええい、貴様らが聖人君子と仰ぐサラディンじゃって元は父アイユーブがセルジューク朝に仕えていて罪を得てザンギー朝に亡命て取り立てられ、その保護下でサラディンもザンギー朝の将軍になり、ザンギー朝の命令でエジプトのファーティマ朝に攻め込んでこれを乗っ取ってアイユーブ朝を開き、大恩あるザンギー朝を滅ぼしてイスラム世界を統一してるんじゃぜ? 悪党と云う意味ではどっちもどっちだってーの)

と言う評価は筋違いではないかと思います。
これは「主君への忠義」に関する評価であって、支配地域の住民に対する統治の評価や、外敵の撃退といった功績とは別物ではないでしょうか。
2009/11/05(木) 18:13:48 | URL | by特命希望 (#9L.cY0cg) [ 編集]
ああ、この文章は両者の政治的な功績を比較しているのではなく、「リチャードの悪行を書き立てるなら、サラディンの悪行もきっちり書けよな!」みたいな感じで、リチャードを極悪の暴君、サラディンの事を聖人君子か何かだと思って贔屓にしてる自称「深い歴史マニア」宛てに書いたんであります。文意が分かり難くて申し訳ないです>>特命希望さん

しかし今読んでみると、対象を特定しない批判、即ち藁人形論法ですな、これは。
恥ずかしいが、まぁ、今後の戒めとして敢えてそのまま放置。
2009/11/27(金) 16:18:08 | URL | by軍曹 (#mQop/nM.) [ 編集]

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